アルファードと犬の部屋
 
画像の持ち帰り・無断での使用はお断りします。。
 

新しい順に表示

すっかりご無沙汰してしまいました・・

娘の3回の入院と高校受験にオタオタして・・
すっかり放置してました
やっと制服の採寸を済ませて後は入学式を待つ
ばかりとなり
ホッと一息です

卒業式に出られたのも奇跡??と思うくらいで
この数ヶ月で何年分も過ごした感じです



3月19日(水)15:12 | トラックバック(0) | コメント(0) | あすかのオリジナル | 管理

【ムコ多糖症】

この病気は人間の中でも小さい子達に見られる病気です。
しかし、この《ムコ多糖症》と言う病気はあまり世間で知られていません。
(日本では300人位発病) 

つまり社会的認知度が低い為に今厚生省や
その他製薬会社が様々な理由を付けて、
もっとも安全な投薬治療をする為の薬の許可をだしてくれません。

《ムコ多糖症》は日々病状が悪くなる病気で、
発祥すると殆どの人が10~15歳で亡くなります。

それで思いついたのがこのバトンという方法です。
5~6歳の子が厚生省にスーツ姿で出向いて自分達が生きる為に
必死に頭をさげてたりしています。
この子達を救う為に私達ができる事は、
この病気を多くの社会人に知ってもらって
早く薬が許可されるよう努力する事だと思います。
みなさん協力お願いします。

[ムコ多糖症]  
ムコ多糖を分解する酵素が先天的に欠損している為、
体内に蓄積することで様々な異常が引き起こされる病気。
多くの場合、身体や精神の発達遅滞、骨の変形、水頭症なども伴う。
重症の場合は成人前に死亡する。
今のところ有効な治療法が無いので、
骨髄移植や遺伝子治療の臨床成果が待たれる病気の1つである。

http://www.muconet.jp/

★この本文を 日記に貼り付けてください。
※私達が何か力になれば・・・とバトンを手渡ししてます。
お時間のある方は御願いします。
家庭や職場でも話題に上げて頂けると更に広がって行くと思います。
よろしくお願いいたします m(_ _)m

このバトンは滋賀のぷーパパさんより引き継ぎました。
少しでもたくさんの子供が助かりますように。



11月7日(水)07:52 | トラックバック(0) | コメント(1) | あすかのオリジナル | 管理

着々と準備を~

11月の第2土曜日にアルの後ろの山で
”松明あかし”が行われます
雪が降らないことを祈るばかりですが・・



この丸く掘ってある穴の中に松明を立てます
ココは今年で卒業の子供が通う学校のです
ということは今年は2つ面倒見ないと
いけないということに・・



10月30日(火)13:50 | トラックバック(0) | コメント(0) | あすかのオリジナル | 管理

耳血腫

耳血腫は、耳の軟骨と皮膚の間に血が溜まり、血腫の部分がぽこっと膨れる病気です。

 耳は、皮膚-軟骨-皮膚の三重構造になっています。
 耳以外の皮膚では、皮下組織が豊富にありますが、耳においては皮膚の下がすぐ軟骨になっており、皮膚の“遊び”がありません。
 また、打ったとき、衝撃が吸収されずに軟骨まで伝わり、そのためにも出血がしやすくなってしまいます。
 出血が起こると、血液は皮膚と軟骨の間に溜まります。
 その時、溜まった血液により、皮膚と軟骨の結合は引きはがされてしまいます。

 耳血腫は、しばしば外耳炎と関係しています。
 出血するメカニズムとして一番多いのは、外耳炎により耳が痒くなり、ぶるぶると振っている時、机の角など、硬いところに耳があたり、血管が切れて出血が起こる、ということです。

 命に関わるような病気ではありませんが、美容上の問題が一番のポイントになります。
 血腫をそのまま放置しておくと、血腫がいずれ結合組織に置き換わり、やがて収縮し治癒していきますが、その経過で耳の軟骨が変形し、いびつな形の耳になる可能性があります。
 耳の変形は外から見て分かるものですので、飼い主さんにとっては見栄えが悪くなることは、しばしば問題となります(犬は多分気にしませんが)。

 治療の目的は、耳の変形をおこさせないことが一番重要なことになります。
 そのため、血腫を取り除き、皮膚と軟骨と接着させなければなりません。
 耳血腫の治療で大変なのは、血腫を吸引しただけではまた血腫が溜まってくることがしばしばあることです。
 耳血腫が起きてから時間がたっているときは、血腫の内腔表面にフィブリンというタンパク質が内張をしてしまい、くっつきにくくなってしまいます。
 新鮮な傷でないとき、血腫を吸引し皮膚と軟骨を接合させても、液がまた溜まってくれば、皮膚は容易に軟骨から引きはがされてしまうことになります。

 何度か吸引してもまた血腫が溜まってくる場合は、外科的な処置が必要となります。
 その目的は、血腫が皮下に溜まらないよう外部に排液されるようにすること、そして皮膚と軟骨の再接着を促すこと、です。
 何度か吸引してもすぐに溜まってくるときは、時間の経過と共に、よけいくっつきにくくなっていきますので、ある程度の所で外科的な処置に踏み切る必要があるかも知れません。

 耳の変形は、軟骨のダメージの度合い、時間の経過、血腫の大きさ、本人の性格(気にして掻いたり振ったりするか)、などの要因により異なります。
 いずれにせよ、発生した場合は、早い段階での診断と治療が大切です。


※ 我が家のゴールデンやってくれました・・
ゲージにこすったのか、ぶつけたのか・・
こんなことがあるなんて気をつけないといけませんね~
ただ今2回目の血抜きチャレンジ中です!!



10月15日(月)22:03 | トラックバック(0) | コメント(2) | 犬たちの部屋 | 管理

日本三大火祭り「松明(たいまつ)あかし」

カヤ刈り作業も終了しました
今年ももうすぐ松明あかしの時期ですね~
寒いので雪は勘弁していただきたいのですが・・
由来を載せましたので読んでくださいね

       

         [松明あかしの由来]

 今から約400年以上も前の天正17年(1589年)6月、伊達政宗は、会津黒川城(若松城)城主芦名氏を滅ぼし、その余勢をかって須賀川城を攻撃しようと、密かに岩瀬地方西部の諸将に密使を遣わしていました。

 このときの須賀川城主は二階堂盛義の後室大乗院で、気丈な女城主であり、しかも政宗の伯母でもありました。 政宗が攻撃した会津黒川城主芦名氏は、また大乗院の嫡子である盛隆が城主をしていたこともあって、快しとしませんでした。

 政宗の計略に怒った二階堂家の家臣や領民たちは10月10日の夜、手に手に松明をともし、町の東の丘(十日山)に集まりました。そこで決死の覚悟で須賀川城を守ることを決議し、城主である大乗院に進言したのでした。

 同年10月26日、伊達政宗は大軍を率いて須賀川を東西に流れる釈迦堂川の北側にある陣場山(現須賀川桐陽高校)に本陣を構え、釈迦堂川を挟んで合戦の火ぶたが切られたのでした。

 しかし、前々から政宗に内通していた二階堂家重臣の守谷筑後守は、城本丸の風上にあった二階堂家の菩提寺・長禄寺に火を放ったのです。 火はたちまち四方に飛び火し、町中が火の海と化してしまったのです。須賀川城は火炎に包まれ、家臣の大部分は城と運命をともにして悲壮な最期を遂げたのでした。文治5年(1189年)から400年の長きにわたり、南奥羽の雄として権勢を誇った二階堂家、須賀川城も遂に落城してしまいました。 「松明あかし」は、この戦いで戦死した多くの人々の霊を弔うために行われるようになった行事です。

 昔は旧暦の10月10日に行われていましたが、現在は新暦の11月第2土曜日に五老山で行われています。

 この五老山は、天正9年、三春城主・田村清顕方と須賀川城主・二階堂盛義の老臣5人が和睦の交渉をしたことから、五老山と呼ばれるようになったところです。



10月8日(月)20:12 | トラックバック(0) | コメント(0) | あすかのオリジナル | 管理


(2/19ページ)
最初 1 >2< 3 4 5 6 7 8 9 10 最後